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「古書 千利休」
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古書 千利休

千利休

茶道の歴史を全く知らない、という人でも千利休の名前くらいは耳にしたことがあると思います。骨董買取・千利休は商人の息子から、織田信長、豊臣秀吉という天下に名を轟かせた二人の戦国武将に仕えました。当時、茶は戦国武将にとって嗜みの一つであり、名のある茶器は国よりも価値があるものと扱われていました。己の大切な茶釜を誰にも渡したくない、という想いから松永久秀は、織田軍二万に包囲された際、「茶釜を渡せば命は助けてやる」と言われながらも、大切な茶釜の中に火薬を詰め、それを自分の首に縛り火をつけ茶釜と共に爆死した、というエピソードは、当時の茶という文化が武将にどれだけの影響を与えていたかを現代に生々しく伝えています。当然、茶道、茶器に精通した千利休の働きは、二人の武将にとって重要なものでありました。千利休は決して高価な茶道具に拘ったりはしませんでした。当時、茶杓は金、銀、象牙などで作られていました。しかし、千利休によって茶杓を特に高価でもない竹で作られました。竹の茶杓は消耗品として使われていましたが、とても味が深く、茶の雰囲気にとても合っています。

芸術が権力に屈してはならない

現代に残っている千利休が作り上げた竹の茶杓に「泪」という作品があります。この茶杓は、千利休が切腹を豊臣秀吉に命じられた時に自ら作り上げ、最期の茶会を開いた時に使われたものです。千利休と豊臣秀吉は、当初は名コンビと言われていました。豊臣秀吉が徳川家康に「織田信長の後継者は豊臣秀吉」ということを思い知らせることが出来たのは、千利休を従わせていたからなど、千利休の存在そのものが豊臣秀吉の武器であったのです。しかし、ある時期から茶の好みが別れ、徐々に名コンビと言われた千利休、豊臣秀吉との仲に亀裂が走り始めました。豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた理由は様々な説があります。安い茶器を不当な値段で売り捌いたという疑いをかけられた、朝鮮への出兵に反対した、不安定だった豊臣政権の争いに巻き込まれたなど多くの説があります。切腹を命じられた千利休は、一切弁明や豊臣秀吉の気分を害したことに謝罪しなかったそうです。 天下一の茶人となった千利休。しかし、彼は切腹という悲劇的な結末を迎え、この世を去りました。豊臣秀吉は、千利休が謝罪をすれば切腹を取りやめた、または切腹自体を命じなかったと言われています。しかし、千利休は謝罪をすることは最後までありませんでした。芸術が権力に屈してはならない、という信念のようなものを千利休は持っていたのかもしれません。故に、豊臣秀吉に謝罪することは出来ず、秀吉も謝罪しない千利休を許すことが出来なかったのでしょう。名コンビは互いに譲れず、悲しい結末を迎えてしまいました。茶杓「泪」には、二人の仲が完全に決別してしまった千利休の悲しい想いが込められているのかもしれません。